ツァンパの日記

旅と民族文化を愛する田舎暮らし人の日記。

旅と民族文化を愛する田舎暮らし人のつれづれ。

鬼子来了

DVDを借りて見る、

というだけのことがなかなかできなかったここ数年。

ミニシアター系の映画とか、昔はよく見てた。

日々に流されるだけの自分を見直すべく、最近ようやく映画鑑賞なんつーものを再開。

 

で、見たのが、

「鬼子来了」(邦題:鬼が来た)。

太平洋戦争時代の中国、日本兵捕虜を預かることになった村人たちの話。

「中国で制作された太平洋戦争を描いた映画」というだけで、ひたすら日本兵の悪行を並べ立てるだけの反日映画だったらやだなーと思ってしまうのだけど、

いやいやそんな感じではなかったです。

確かこの映画が封切られた頃、日本兵役で出演している香川照之にある種のバッシング(「非国民」的な)があったような記憶があるけど、

いやいやそんな感じでもなかったです。

 

反日映画でもなく、

もちろん反中映画でもなく、

さらには(ハリウッド的な)単純な反戦映画でもなく、

戦時下の人間というものの姿をものすごーくリアルに描いた映画だった。

 

毎朝のんきに(?)ラッパ鳴らして行進する日本兵たち。

それを囲んで、アメもらったり、「センセイセンセイ」とこびて笑う村人たち。

片言の中国語で村人に話しかける将校。

そこにある、ある種の関係性は、決して「友好」でも「親愛」でもないけれど、でも「敵対」でも「憎しみ」でもない。

「日常」という時間の積み重ねだけが生み出す、ゆるやかで穏やかな、不思議なつながり。

戦争中、本当に多くの場所で、こんな「日常」が確かに存在したんだろうなと思わせるこのリアルさ。

でも、このゆるやかなつながりはとても脆いもので、ほんのささいなことから、最終的には取り返しのつかないカオスにつながる。

そしてこんな「カオス」もまた、戦争中たくさんの場所で発生したんだろうと思う。

 

昔昔、大学で研究していたテーマが、東チベットにおける近現代の中国とチベットの関係性だった。

清朝(中国)とラサ政権(チベット)という2つの政治的中心の間で、境界地域にいる一般大衆は、おそらくゆるやかなつながりのもとで共存していたと思われる。

それが、何らかのきっかけで崩壊し、結果的には東チベットの民衆は反中ゲリラとして先鋭化していった。

 

ゆるやかなつながりと、その後のカオス。

人間の持つ業の深さのようなもの。

これは太平洋戦争時の中国と日本に限ったことでなく、普遍的なものなのかもしれない。

だからこそ、中国人監督がここまでリアルに日本兵を描けるんだと思う。

とにかくこの映画は、「人間」がとてもリアルだ。

 

でも中国では上映禁止なんだとか。

(別に日本に好意的な映画でもないけど。明確に「反日」じゃないとだめなのか?了見狭すぎ!)

 

にしても、陸軍将校役の役者さん、怖かったなー。

犬を叱る、子供を叱る

じぇんが図書館で「これ借りる」と言ってもってきた本が、

「スーフと馬頭琴

だった…!!

(「スーホと白い馬」と同じお話。モンゴル民話。)

しかも「これをBGMにして読み聞かせしましょう」的な馬頭琴のCD付き。

文字は読めないのに、居並ぶ背表紙からこの本をチョイスしてくるとは…

ふふふ、親のマインドコントロールってすごいな。

----------------------

そんなじぇん5歳をしばしば怒りすぎちまう…というのが目下のわたくしの悩み。

一昔前は、悪いことすると蔵に閉じ込めらたり、庭の木に縛りつけられたり、家から閉め出されたり、なんて普通のことだったと聞くけれど、当世の流行りはなにはともあれ「怒らない育児」。

怒るたびに後でなんだか罪悪感を感じてしまうし、自分のためにも(たぶん)じぇんのためにもできればあんまり怒らずに生活したい。

 

ところで、近所に聴導犬の訓練施設があって、訓練前の犬を一般家庭で数か月生活させるボランティアを募集している。

犬を飼おうと思ったとき、このボランティアにも興味があって話を聞きに行ったことがある。

ボランティアの条件として、

「犬を絶対に叱らない」

というのがあった。

ここの協会の犬たちは、

悪いことをする→叱られる→しないようにしよう…

ではなく、

ひたすら

いいことをする→ほめてもらえる→もっとしよう!

というサイクルのもとで訓練されていくのだそうだ。

ううむ、なるほど。

(でも、人を咬んだりしちゃったときはどうするんだろう)

 

その後、この協会とは別のところでご縁があってツァンパが我が家の犬になったのだけど、彼女については私はたいてい「叱らない」でいられる。

吠えてしまうときなんかは、近くに呼んで「分かったよー、聞こえてるよー」と言ってやる。

また、吠えるシチュエーションは予測できるので、郵便やさんが来たり、宅配が届いたりする時間帯には、吠えないように前もってツァンパを傍に呼んでおいたり。

(まあそもそも過去に虐待経験があるらしいツァンパは、1度叱ったらびびりまくっておしっこもらしてしまったので、うかつに叱れないという事情もあるが)

 

翻って、人間はどうか。

犬は叱らずに教えられるのに、なんで人間だと叱ったり怒ったりしちゃんだろう。

 

1.こちらの期待が高い

赤ちゃんや犬に怒らないのはたぶん「できない」のを受け入れているからで、「服を自分で着れるはず」「妹を叩いちゃいけないって分かっているはず」「座ってちゃんとご飯を食べられるはず」等々の期待をこちらが勝手に持ち、それができないと「なんでできないの!」と怒ってしまう、ような気がする。

期待値を下げれば怒らなくてすむかもしれない。

でも、そうやって赤ちゃん扱いするのは果たしていいことなのか?甘えに対していちいち親が手を貸してやってやるというのはいかがなものか。自立に反するんじゃないのか。

それとも、保育園ではどうせ自分でやってるんだし、家で甘えるのも今のうちだけなんだからよしとするべきなのか。

基本現状維持でいい犬と違って、子供には社会のルールを教えたり礼儀作法を身につけさせたりしないといけない。

大人同士の関係と違うから、心穏でやかに過ごせればそれでいいってものじゃないだろう。

波風たってもアクションを起こす&変えていく 必要があるんじゃないか。

さて、怒らずにアクションを起こすにはどうすればいいのか。

いいことをする→ほめてもらえる→もっとしよう!

サイクルは、人間でも有効だと思う。

でも、「悪いこと」を見つけた時に何も言わないでいいのか?

うーん。

 

2.予測できない

犬は単純だからやりたいこともやることもたいてい予測可能で、したがってこちらの対応も事前にシミュレーション可能。

が、人間、特に予測の斜め上を行く生き物たる男子は、そうはいかない。

シミュレーションしてない事態に冷静に対応できるか。

まあこれはひとえにこちらの修行の浅さが問題だな。

 

3.反省を見せない

怒られるときまりが悪いからわざとふざけたりにやにやしたりするんだけど、まあこれが怒っているこちらの火に油を注ぎますね…。

でも考えてみれば、子供とはいえ人間の精神のいかに複雑なことか。

「恥ずかしい」とか「きまりがわるい」とかってかなり高度な感情で、犬にはない感情だよね。

 

何の結論も出ませんが…。

一筋縄ではいかない生き物と一緒に暮らしてます。

 

イマドキ男子のファッション

何かの待ち時間でたまたま見かけた新聞記事によると、

イマドキ男子(15~24歳)が、

ファッションや身だしなみについて相談する相手第1位が「母親」だとー!!

さらに、母親と2人だけで「外食する」や「買い物する」が6割だとー!!

ちょっと(いや、ちょっとじゃない)衝撃を受けました。

 

うーん。

まあでも15歳は中学生だからありえるか。

自分のお金ないし、店まで車で連れてってもらうわけだし。

いやまてよ。中高生って反抗期=母ちゃんなんかと極力距離を置きたいお年頃、ではないのか?

それとも最近の子はそもそも反抗期すらないっていうからなー。

うーん。

でもさ、「ファッションを母親に相談する」ってどうよ!?

「ママと相談して決めた&買った服」を着てデートにやって来る彼氏って、イマドキの女子的にはどうなのでしょうか。(そこもアンケートしてほしいぞ)

1位母親ってのがねー。

「男の親友」よりも「母親」が上だよ?

わからん。わからなすぎる。

 

世代ギャップなんでしょうか。

私は女だけど、母親にファッションの相談なんかしたことないし、しようとも思わなかったなあ。

横で

「あなたもうちょっと明るい色着たら?」だの

「あなたその恰好おかしいわよ」だの

(勝手に)言ってた気はするけど、

「そんなおばさん趣味知るかーっ」って思ってたな。

だいたい10代なんて他の世代には理解不能な過激な恰好をするもんだし(私の頃は、ルーズソックスとかヤマンバギャルとかでしたよ)、そういうアホな冒険ってその年頃にしかできないから、大人にあれこれ批判されながら(やりたい人は)大いにやっていいと思うけどね。

若者の反骨精神って人間形成において大事な部分だと思うけど、そういう考え方自体がすでに時代遅れなんだろうか…。「亭主関白」が絶滅した(?)ように…。

 

自分が親に対してとってきた行動およびそれに付随する気持ちをかんがみるに、自分の子供たちに対してむやみに甘い期待を抱くことのないようにしようと、彼らが生まれた時から思っています。

もちろん今は「大好き!」と臆面もなく言ってくれるかわいいかわいい幼児期だけど、いずれ彼らが親を踏み台にしてジャンプしていく日がきても、それに受け入れられるようにしようと。

だって子供は、友達でもなければましてや所有物じゃないし、神様から借りて預かって育ててるもので、いつかは私と違う思考を持って自分の足で歩いていくものだから。

 

…と、思ってたんだけど。

10年後、じぇんに「一緒に服選んでー」とか言われたらどうしよう。

う〇この暴力

のっけから下の話で恐縮ですが。

 

今朝。

息子じぇん(5歳)が、

「う〇ち行くー。せんせいが、朝う〇ちするといいっていってたからー」

と言いながらトイレへ向かった。

先生が言ったことをもろに素直に実行するなんて、保育園児ならでは。

かわいいねえ。

 

でもふと思ったんだけど。

「毎朝う〇ちを出してきなさい」

って、昔からことあるたびに言われてたなー。

 

しかしながら、長じて思う。

1日1回だろうが2回だろうが2日に1回だろうが、

朝出そうが昼出そうが夜出そうが、

そんなの勝手でしょー。

 

というのも。

私は体質的に毎日出ません。

だからといっていわゆる便秘症なわけでもなく、出るとなったら普通に出るんだけど、ただ間隔がそうなんです。昔から。

それと、朝出ることはまずありません。

朝は時間がない。朝はリラックスできない。朝は別にもよおさない。

等々の理由から、夜派。

これで30年以上生きてきて何の問題もないんですけど。

 

だけど、ことあるたびに、

「毎朝トイレに座る習慣をつけろ」だの

「毎日1回出るよう運動しろ」だの

あれこれ言われるんだよ。

「毎朝1回」が達成されてないと「不合格!」みたいな勢いで。

 

世の中、1日2回の人もいるでしょ?

それなら2日に1回の人がいてもいいじゃん。

それで腹痛とか難便とかなんらかの問題がないなら別にいいんじゃないのー?

体質とかライフスタイルとかいろいろあるじゃんかよー。

 

と、心ひそかに思うのであります。

 

 ちなみにじぇんの父親は1日1回、朝派。(「優等生」!)

こういう人は、これがふつうだと思っている上に、これが正しいと思っている。

マジョリティーかつ「善」側の圧力というか暴力ってあるよね。

彼がしばしば、じぇんに対して「う〇こ出せ出せ」圧力をかけているのを見ては思う。

じぇんー、

そんなの自分のペースでいいんだよー。

自分の体の声をちゃんと聞くことの方が大事だよー。

だって出るときはちゃんと出るんだもん。

 

ちなみにうちの犬ツァンパは、1日2~3回。ほとんど外に出すたびにする。

書くこと

ブログ、始めました。

 

何かがあったわけではないけれど、なんだかふと、思ったんです。

日々のあれこれに忙殺されているうちに、自分にとって興味があること、自分がやりたいこと、知りたいこと、etc.を見失いかけてやしないか!?

自分、何だっけ!?

あれやこれや好きなもの、興味あるものをかじるだけのエネルギーを持ってた自分、どこ行った!?

 

言語化&文字化することで見えてくるものって確かにあると思うし。

自分の足跡をつけていくことも、日々にいたずらに流されないために必要だと思うし。

 

そんなわけで、誰に対するでもない、自分のためのブログを、自由にぼちぼち記していけたらなと思います。